無認可7年を経て、認可されて20年の保育園です。東日本大震災による原発事故が起きたのは、この子たちが2歳児クラスの3月でした。先の見えない不安の中、ほぼ1年間は室内での活動を強いられ、土や草花に触れられず、制限時間内しか外に出られませんでした。園庭を除染し、築山を崩して中の土を広げてから少しずつ土で遊べるようになりました。また、放射線量を計りながら散歩に行けるようになったものの、今だに山奥には行けず、そればかりか山菜を採って食べる喜びも奪われたままです。
この子は2ヵ月で入所。年長の頃には身体がしなやかで働き者に育ちました。3人兄弟の真ん中で、大人の顔色をうかがったり、前に出て話をしようとするだけで涙ぐんでいました。卒なく何でもしていましたが、竹馬では苦労し、時間はかかりましたが乗れるようになり、大きな喜びを味わうことができました。また、福島の仲間たちと5回の交流合宿を重ねる中で刺激をうけ、どこに行くにも側転で移動したり、新しい友だちを作ったり、自信をつけていきました。そして卒園期にはつま先まで伸びたきれいな側転になり、大勢の人の前でも臆せず堂々と自分の意見を伝えるようになりました。
この絵は『火の鳥』(斎藤隆介 作)の最後の場面を描きました。